2010年07月31日
まだ開けられないファイル (7月現在)

介護の記録を 思い出して書こうと 介護と医療のファイルを開けてみました。身体障害者手帳を開くとそこには夫の写真が・・・

辛くなり、すぐに閉じました

半年間の間に 毎月のように区分変更調査が入り 介護保険証は3冊 手帳は2冊。 ピンクの特定疾患の受給者証には病院名を追加するのに何度も保健所に通いました。病気の進行の速さが これを見るだけで思い出されます。よくがんばったなと 思います

まだ亡くなって4ヶ月・・・。
配偶者としての手続きに追われ 走り回った1・2ヶ月











いったい私は なんだったんだろう・・・。妻? お世話係り? 家族でハッピーエンド

でも こうして今 このファイルを辛くて見れないでいる私は やはり妻か・・・・

2010年07月29日
仕事と介護 家族愛(振り返り)
また間が空いてしまいました
何から書こうか・・・迷うんです。読んで下さる皆さん 気長に 更新をお待ちください
取りあえず 前回の続きで 「仕事と介護について」 私の経験を綴ります。
別居していた夫と再会し 一緒の生活に戻ったころは「〇〇(妻の私)には 足向けて寝られないな・・」
「俺は ここにおいてもらえるだけでいい」「俺は施設でいい 世話はかけない」
外では バリバリ仕事をこなし 人を引きつけ それはカリスマ性のある夫でしたが 妻の私には頭の上がらない様子でした。 このころは穏やかに生活が流れていました
(こんなんで まだまだ 我々のStoryは 終わりませんが・・・
)
秋から冬にかけて 左手が動かなくなり 日を追うごとに介助は増え ヘルパーさんの週3~5回の昼の食事介助 週2回の訪問リハビリが定着したものの 私の時間刻みの仕事の合間は トイレ 夕食 お風呂 マッサージ・・・と、いつも追われている感じで 気が付くと自分の夕飯がその日の一食目なんてことはよくありました
。仕事を減らそうかと さすがに何度か考えたこともありましたが 現実、いずれは母子家庭になる運命ですから 家族を養っていくのは私の役目!責任は重大で 軌道に乗っている仕事を減らすのも問題でした。
それに多くの経験者が 「 仕事は辞めちゃダメよ
」 「 仕事があれば乗り切れるから
」 といったように 私のメンタル面で仕事は救いになったのです。ある時期から 意見が分かれ険悪になったり 批判され怒りを感じたり それはそれは納得できない問題に対する悔しさなどなど 夫と共に過ごす時間が 苦痛になることが増えていったのです。自分が弱っていくのに 妻はバリバリ仕事をして 面白くないのでは?という友の慰めもありましたが 確かに仕事に関して攻撃的でした。(夫亡き後、ある理由が明らかに・・・)笑顔が消え気力を失くした12月、へそを曲げ食事も要らないと数日部屋に引きこもった年の初め・・・ 娘との親子喧嘩(私に当たれない反面、娘に当たる?)
過去カノの問題まで それはそれは問題がわんさか出ました。仕事の時間は そんなモヤモヤ感を忘れられました
仕事で忙しいほうが この介護は上手く行く!とそう思いました。
それとは反対に(後で知りますが) 夫は 本当は私に側にいて欲しかったらしいのです・・・。でもそんな甘えを 私に言える状態ではありませんでした。過去に自分が蒔いた数々の問題で 私は心身共に病み 家族は数年バラバラになっていたからです。数年前 私から離婚届を突きつけられ 協議も出来ない状態に夫婦関係はこじれ・・・そんな事情で別居していた 分けあり夫婦でした。
私の心の傷は 癒えてなく 時々目を伏せたくなる場面のフラッシュバックがありました。介護を決めたときに 過去を思い出さないはずはないとは思いましたが このように画像で出てくるとは 想像もつきませんでした。我々の結婚生活の闇の部分です
辛いのは今この人だから・・・私が過去を封印すればいいと思っても 夫からその話題が何度も出て、間髪いれず 「その話はしないで」 と逃げるしかありませんでした。 延々終わらない話し合い
になるのは パターン的に分かっていました。(とにかく長い
)そんな労力 互いに使ってる場合でなく 自分の身を守らねばと思いました。
夫の介護を貫くには 家族を守るためには自分自身がつぶれないようにしなければ・・・と とにかく日々自問自答しながら 必死でした。一部からは仕事をしている私への批判の声も聞こえて来ましたが、怖くはありませんでした。私たちの複雑な歩みは、想像すら不可能ですから・・・。仕事に打ち込み 介護保険をフルに利用し 夫の手続きをてきぱきこなし 夫と毅然と過ごすことが 自分の防衛反応でもあり 私なりの家族への愛情表現であったと今 振り返り思います


別居していた夫と再会し 一緒の生活に戻ったころは「〇〇(妻の私)には 足向けて寝られないな・・」
「俺は ここにおいてもらえるだけでいい」「俺は施設でいい 世話はかけない」
外では バリバリ仕事をこなし 人を引きつけ それはカリスマ性のある夫でしたが 妻の私には頭の上がらない様子でした。 このころは穏やかに生活が流れていました

(こんなんで まだまだ 我々のStoryは 終わりませんが・・・

秋から冬にかけて 左手が動かなくなり 日を追うごとに介助は増え ヘルパーさんの週3~5回の昼の食事介助 週2回の訪問リハビリが定着したものの 私の時間刻みの仕事の合間は トイレ 夕食 お風呂 マッサージ・・・と、いつも追われている感じで 気が付くと自分の夕飯がその日の一食目なんてことはよくありました

それに多くの経験者が 「 仕事は辞めちゃダメよ




それとは反対に(後で知りますが) 夫は 本当は私に側にいて欲しかったらしいのです・・・。でもそんな甘えを 私に言える状態ではありませんでした。過去に自分が蒔いた数々の問題で 私は心身共に病み 家族は数年バラバラになっていたからです。数年前 私から離婚届を突きつけられ 協議も出来ない状態に夫婦関係はこじれ・・・そんな事情で別居していた 分けあり夫婦でした。
私の心の傷は 癒えてなく 時々目を伏せたくなる場面のフラッシュバックがありました。介護を決めたときに 過去を思い出さないはずはないとは思いましたが このように画像で出てくるとは 想像もつきませんでした。我々の結婚生活の闇の部分です



夫の介護を貫くには 家族を守るためには自分自身がつぶれないようにしなければ・・・と とにかく日々自問自答しながら 必死でした。一部からは仕事をしている私への批判の声も聞こえて来ましたが、怖くはありませんでした。私たちの複雑な歩みは、想像すら不可能ですから・・・。仕事に打ち込み 介護保険をフルに利用し 夫の手続きをてきぱきこなし 夫と毅然と過ごすことが 自分の防衛反応でもあり 私なりの家族への愛情表現であったと今 振り返り思います
